ものづくり都市・川口の伝統と信頼の証 川口i-mono(いいもの)・i-waza(いいわざ) ブランド認定制度

川口のものづくりについて

 川口市は、埼玉県の南東部、荒川を隔て東京都と隣接する人口60万人以上の都市であり、鋳物・機械・部品・金属・精密加工等の「ものづくり産業」が集積しています。  江戸時代には、巨大都市江戸で日常物資への需要が急激に高まり、川口は、荒川や芝川による舟運を利用した江戸向けの商品の開発、生産や流通が盛んになりました。この頃から、川口の代名詞となっている鋳物工業、植木産業などが発展しはじめ、産業都市としての礎が築かれていきました。また、市内を流れる芝川流域に自生する布袋竹を素材に釣竿づくりが始まり、全国随一の釣竿生産地として名をはせました。
 明治時代になると、日本の近代化の中にあって、川口は重要な役割を担うようになり、次第に機械部品や大型鋳物の製造が盛んになりました。川口には河川交通や街道があったこと、東京市場や京浜工業地帯を近くに控えていたことなどの優位性もあり、日用品鋳物に代わり土木建築用鋳物や機械鋳物の生産が増加し、併せて関連産業の分業化が進展しました。明治43年の川口町駅(現川口駅)開設による陸上輸送の増強などもあり、川口の鋳物の販路は、関東地方から、東北、北陸、東海地方へ広がり、さらには朝鮮、台湾にまで広がりました。そして、大正3年の第一次世界大戦の勃発により、外国からの注文が急増したことに加え、京浜工業地帯の急速な発展とともに機械鋳物の生産が増大し、本市の機械工業も発展していくこととなります。
 第二次世界大戦終戦後は、生活物資が不足する苦難の時代を経ながら、鋳物工業の再生を核とする復興が進められました。昭和39年の東京オリンピックに使用された聖火台は、戦後の復興を果たした日本のシンボルであるとともに、川口鋳物を代表する作品です。このような鋳物工業の歩みの中で、木型工業や機械工業など、機械金属分野に関連する多数の工場の集積が進みました。また、織物産業についても、戦後の高度経済成長期における急激な都市化の進展に伴う需要増と織機技術の進歩があいまって、専業の機屋が多く存在し、織物業界を襲った幾多の苦難を乗り越えながら、生活必需品を量産していました。
 現在は、日本の産業構造と違わず、経済成長とともに第三次産業の比率が高まり、本市においても、ベッドタウンとして駅前を中心に市民の生活を支える商業施設が集積し、第一、二次産業は、国内外の競争激化や担い手不足などといった原因から減少している状況です。
 しかしながら、本市を支えてきた鋳物や機械をはじめとする伝統的な産業は、力強く地域に根付いています。その伝統的な産業に、商業・農業・メディアなど幅広い産業も加わり、躍進する"新産業文化都市"として、現在に至っています。
 ここでは、川口の産業を支えた鋳物工業、機械工業、木型工業、織物産業、釣竿産業をご紹介いたします。

鋳物工業

 川口の鋳物業の歴史は古く、発祥から約千年をさかのぼるとされる。その起源は様々で、天慶3年(940年)、平将門の乱をしずめるために、下野国(栃木県)の豪族藤原秀郷が討伐におもむいた時、その軍に従った鋳物師が平定後も川口にとどまり鋳物の技術を伝えたという「平安説」や歴応年間(1340年頃)、河内国(大阪府)丹南郡の鋳物師が川口に移住したとする「丹南説」、他にも「宋人説(建久年間:1190年代)」「渋江説(戦国時代)」など諸説がある。
 ただし、これらの説のいずれにも確実な根拠はなく、伝説または推測にすぎないとも言われ、大ざっぱに鎌倉時代ないしは室町時代のおこりと使われることが多い。
新編武蔵風土記によると、明和元年(1764年)頃の川口には民家が314戸、鋳物を業とする者が14人あり、彼らは鍋、釜、風呂釜、鉄瓶、銚子、火炉などを生産していた。江戸末期になり、一部の鋳物師が大砲の鋳造を行なっていたが、生産の中心は鍋釜であったという。
 明治に入ると西洋文化の流入もあり、工場経営の面でも、また生産技術の上でも飛躍的進歩を見る。また、日清・日露戦争以来、数次にわたる大戦の影響を受け、従来の日用品鋳物から兵器鋳物へと変化をして行く。この流れは、大正・昭和と続き、川口鋳物は隆盛をきわめた。
 その後、第2次世界大戦直後の我が国産業の壊滅的な打撃の中で、川口の鋳物業界も大きな影響を受けたが、川口鋳物工業協同組合や傘下組合員の努力もあり、再びストーブや風呂釜等の日用品鋳物、そして昭和30年頃からは機械鋳物へと生産の転換を図りながら復興を遂げ、全国鋳物業界にゆるがぬ地歩を占めるようになった。
 時代は高度経済成長期に入り、川口鋳物も活況を呈するが、昭和48年のオイルショックや昭和60年のプラザ合意以降の円高、近年の都市化の進展等の影響を受け、鋳物工場は大きく減少した。

機械工業

 川口の機械業の始まりは、農機具の生産を中心とする鍛冶屋と日用品鋳物から機械鋳物へと変化する過程で生ずる機械加工であった。鋳物の需要の変遷に極めて密接な関係を持ちながら発展し、特に永瀬庄吉によって「鋳物の機械化」行われたのを先鞭として川口の機械業が飛躍的進歩を遂げた。
 昭和初期は、満州国建設の需要や戦争での旺盛な軍需に支えられ生産を伸ばし、戦後は平和産業の発展、工業水準の高度化によって精密機械類の生産が始まり、さらに産業機械製品の一貫受注体制の整備が進むなど、京浜、京葉工業地帯と並び「工業都市」と称される代表的な産業となった。戦後は主な取扱製品としては、工作機械、製紙機械、印刷機械、自動車、原電動機、バルブ、鍛造、伸鉄、伸銅、鋼管、歯車等がある。
 川口の機械業も鋳物業と同じように、経済情勢の変化や機械技術の高度化、海外製品との競争、経営の近代化といった幾多の苦難な局面を乗り越えてきた。その中心的な存在が川口機械工業協同組合であり、昭和・平成の機械業界の振興に大きな役割を担った。

木型工業

 鋳物の街・川口を支え、鋳物業とともに発展してきたのが木型業である。鋳物が風邪をひくと木型は肺炎になると例えられるように、木型業は鋳物業に強い影響を受けた。
川口市を中心とした木型の製造は、機械鋳物が行われるようになった明治20年頃から始まったといわれる。木型職人の第1号とされるのが、さいたま市生まれの島崎菊造であり、現在の金山町に移住して、明治35年に多くの弟子を抱え木型工場を開いたとされている。菊造の工場は、その頃から川口鋳物が日用品から機械鋳物、大型鋳物生産へと転換していくのに合わせ、ひき型、かき型、現型などの用途に応じた木型を作っていた。明治40年から45年頃にかけて、この弟子たちが相次ぎ独立し、川口の木型工場は4軒に増え、さらに大正6・7年頃には17軒になったという。
第一次世界大戦による鋳物生産の伸長は、木型業者の急激な増加をもたらした。昭和初期にはたくさんの木型工場が本町・栄町・金山町あたりに集中して存在し、そのほとんどは零細家内工業であったという。
鋳物工業の景気に左右されながら発展を続けた川口の木型業であるが、高度経済成長期を前後し、技術革新、新素材開発、原材料の高騰、労働力不足といった切実な問題がおこった。これらの諸問題を解消し、木型業の発展を期すべく川口木型工業協同組合が発足され大きな成果を見る一方、鋳物工場の市外移転や転廃業等の影響もあり、新しい時代に波に即した対応の在り方が求められている。

織物工業

 織物業は鋳物業に次ぐ地場産業として、近代川口の産業史上、特筆されるべき存在である。その歴史は古く、1825年、足立郡塚越村(現蕨市)の高橋新五郎が、織機の改良、工夫を重ねて精巧な青縞を産出したのに始まる。蕨に起った機業は、次第に横曽根、芝、前川方面に移り、明治初期には既に専業の機屋が存在していた。特に、神根、芝、青木では機業が大いに振るい、川口の重要な産業のひとつとして発展した。
 昭和に入って機械も整備され、昭和5年から10年頃にかけて、川口織物業の最盛期を迎えた。当時の織物工場は100軒以上あり、機織女工に代表される従業員は2700人を超えていた。
 昭和15年、綿織物が統制時代に入り、工場の作業服などが制限されるようになると、織物業本来の機能が極度に低下した。さらに昭和18年の企業整備令がそれに追い討ちをかけ、終戦時にはわずか20軒足らずの工場が残るのみとなった。
 戦後、一部の工場が立ち直り、高度経済成長期と相まって再び活況を呈すが、昭和46年の日米繊維問題、ドルショックなど、織物業を斜陽化する決定的な問題が相次いで発生した。
 今ではほとんど姿をとどめていない織物業であるが、少数ながら懸命に事業を続ける企業によって、伝統ある川口織物の灯が守られている。

釣竿工業

 「釣竿の竹切時、荒増まずキス延べ竿は川口在に限るなり」〔1842年、黒田五柳(ごりゅう)著〕
 この頃から川口で釣竿の生産が行われていたことを示す歌であるが、川口釣竿業の起源はさらに江戸時代の天明年間(1781-89年)にまでさかのぼり、青木村の増田繁次郎が芝川の河川敷に自生する布袋竹を使って竿を作ったのが始まりとされている。
川口の釣竿は漁業用でなく、もっぱら娯楽用の釣竿であった。大正末期から昭和初期にかけ、釣りがスポーツ・レジャーとしての地位を高めると、川口釣竿業は大きく発展した。
川口釣竿工業組合が設立された翌年の昭和16年、国策のための戦時産業体制の整備によって不急不用業種とされ、ほぼ壊滅状態となった。戦後、再びレジャーブームが到来し、戦前の最盛期をはるかにしのぐ生産高となるが、強化プラスチック製釣竿の出現により需要が激減し、昭和40年代の生産業者は35軒ほどに落ち込んだ。
近年は、伝統工芸産業として、高級継竿を中心に生産が続けられている。